シーボルトが日本に残したもの

この文章は2001年9月9日東洞祭におきまして元広大学長・原田康夫先生が発表された演題と2002年9月8日東洞祭で発表された広大名誉教授・関太郎先生の講演原稿をまとめて作成したものです。

Philipp Franz 〔Balthaster〕 von Siebolt 〔1796〜1866〕〔一般にシーボルトと発音されているが、ジーボルトが正しい〕は、ドイツのヴュルツブルグに生まれ、同地の大学で医学を修めた。1822年にオランダ東インド会社の医師として来日し、文政6年(1823年)から文政12年(1829年)の7年間、日本に滞在した。その間に鎖国下の日本で動植物の調査を行い、多数の若い日本人を医学生として教育した。二度目の来日は、幕末で、安政5年(1858年)〜文久2年(1862年)である。二度の滞在で、彼が接した門人や交友は104名に達するという(呉秀三)。
日渉園を開いた後藤松眠(宝暦6年・1755〜文政11年・1823)の子息である後藤松軒(享和3年・1803〜文久4年)は、長崎でシーボルトの教えを受けた。そのときの同窓生に高野長英がおり、松軒と親交を結び、二度も日渉園を訪れている。特に二回目は幕政批判により逃亡中で、松軒が園内の神農堂にかくまった事は、よく知られている。
シーボルトの教えを受けた松軒は、当時の最先端の植物学の知識を、日渉園の薬草栽培などに応用したと思われるが、今日、その後をたどる事ができないのは残念である。また、江川(1989)の「後藤家所蔵図書目録」によれば、後藤家には多数の本草書があったが、ことごとく原爆で消失した由で、これもまことに残念である。

(2002年9月8日・広島大学名誉教授 関太郎先生の資料より。於 広島大学医学部医学資料館・学術集会)

●シーボルトは外科・産科・内科の博士号を取得して大学を卒業し、近くの町で開業し2年間を過ごした。しかし自然科学の関心がつのり、これまであまり調査されていない地域の研究をやろうと決心した。

●26歳になった1822年、オランダの東インド(インドネシア)陸軍病院外科少佐に任命され、1822年9月23日オランダのロッテルダムを出発しオランダの東洋貿易における中心地バタビア(現在ジャカルタ市)に赴任した。バタビア市ではオランダ領東インド政庁の総督ファン・デア・カベレンに自然科学の深い知識と研究心を認められ、長崎・出島にあるオランダ商館の医師に任命された。

●長崎に着いた文政6年(1823年)には、シーボルトは27歳でした。文政12年、33歳で幕府から追放処分を受け、日本をさるまでの6年間にシーボルトは様々な活動を行いました。

●シーボルトは、出島で医学や植物学の講義を行った。また、商館長の働きかけにより出島の外で活動する事を長崎奉行から許された。長崎の町で日本人の診察をおこない、医者の仕事はドイツで2年間やっただけで、27歳の若さで「名医現る」と言う評判が広まった。

●来日してわずか一月後の文政6年8月には、オランダ人だけを相手する遊女で、其扇(そのき)と呼ばれていた楠本滝と言う女性と知り合って結婚しました。お滝とは、のちの悲劇的な別れを迎えますが、シーボルトは彼女を生涯思いつづけたと思われます。文政10年(1827年)には娘=いねが生まれました。

●鳴滝塾で学んだ人たちは故郷に帰ってから自分の熟をひらき、各地に蘭学者が誕生しました。のちに大阪で熟をひらいた緒方洪庵もこの一人です。提出させたレポートの内容は医学に限ったものではありませんでした。シーボルトは学生達に力をつけるためだけでレポートを書かせたのでなく、オランダの対外政策に沿って、日本のことを詳しく調べたのです。学生だった高野長英に与えられたテーマは「鯨ならびに捕鯨について」でした。

●当時出島のオランダ商館長は、4年に一度江戸の将軍に拝謁して多くの品物を献上しました。来日後の文久9年(1826年)30歳のシーボルトは商館長(スチュルレル大佐)の江戸参府に随行して江戸に向かいました。江戸参府というのは幕府がオランダ商館に課せていた義務で、1609年に始まって、幕末まで続きました。またオランダ船は日本に到着すると、諸外国の情勢にはじまり海外ニュースを報告する文書を幕府に提出しました。これは「オランダ風説書」といわれています。

●一行は、文政9年1月9日(1826年2月15日)出島を出発し、シーボルトは旅行中に各地で動植物を採集したり、人々の暮らしぶりを観察したりしました。また多くの医師や学者に面会して、日本に関するさまざまな情報を得ました。江戸に37日間滞在した後、6月3日(7月7日)出島に帰り着きました。

●シーボルトは当時最高機密であった日本地図にも興味を示しました。江戸滞在中に最上徳内という名の日本人が絶対に秘密を守るという約束で、間宮林蔵が調査作成した樺太の地図を描いてある二枚の画布をシーボルトに貸し出した。シーボルトはこの4月16日を特別に幸福な日だと喜びました。

●ところが1828年長崎湾内に停泊していたオランダ船コルネリウス・ハウトマン号が台風で大破し、積荷は岸に打ち上げられました。其の中に国外持ち出しが禁止(禁制品)られていた日本地図や、その他多くの禁制品があったのです。これをシーボルト事件といいます。シーボルトの門弟や友人、関係した役人までも取調べを受ける事になりました。シーボルトは文政12年9月(1829年10月)、国外追放を申し渡されました。シーボルトが日本を去った後、多くの協力者が処罰されたのです。

●日本を追われてシーボルトは、帰国した翌年にはオランダ領東インド陸軍参謀部付を命じられています。滞日6年という実績を買われたためで、シーボルトが持っていた日本に関する豊富な知識はオランダにとって必要だったといえます。オランダの学会はシーボルトの帰国を喜び迎え、政府も出切る限りの優遇を施しました。彼はライデン市のラベルブルグ町に家を買って日本で収集した書物や標本類などの整理をはじめました。其の整理した本の中に貴重な日本の植物を載せて解説した「フローラ・ヤポニカ」があります。

●1845年49歳の彼はヘレーネ・フォン・カーケルンと再婚します。3男2女をもうけました。46年9月ライデン市近郊のシーボルト植物園にある別送「日本」で生まれた長男アレクサンダーは、その後日本に渡り、人生の半分近くを日本で過ごしました。

●再びの来日=シーボルトはオランダ商館長ドンケル・クルチウスの願い出により国外追放を解かれ、安政6年(1859年)オランダ貿易会社の顧問の肩書きで長男アレキサンダーを連れて再び日本に旅立ちました。この時、シーボルトは63歳になっていたのです。長崎に着いたシーボルトは、滝やいね、そしてかつての門弟達と再会し、旧交を暖めました。滝はシーボルトが日本を離れた後再婚して子供も出来ましたが、その子供は亡くなっていました。別れた時に魔だ2歳だったいねは門弟達に育てられ、医学の手ほどきを受けて長崎で産科医として開業していました。シーボルトはいねのためにわざわざ外科道具を持参しています。

●蛮社の獄(天保10年・1839年)=蘭学者に対する弾圧事件、蛮社の獄が起きた。弾圧されたのは渡辺崋山とその仲間たちである。1838年、イギリスの船モリソン号がやってくるという風説をきいた渡辺崋山は『慎機論』を書き、高野長英は『夢物語』を書いて、予想される幕府の攘夷政策に反対した。渡辺崋山らの言動は、幕府の文教を司る林家一門、特に林述斎の次男鳥居耀蔵の恨みをかった。鳥居の企みによって、渡辺崋山と高野長英は投獄され、幕政批判の罪で処罰された。 (杉山滋郎解説)

渡辺崋山 5月14日投獄
小関三英 5月17日自殺
高野長英 5月18日自首

高野長英は入獄後、5年目に脱獄をしました。
それから6年4ヶ月の逃亡生活が始まりました。
弘化元年(1844年)下男・栄蔵に放火させて破獄?
後に母に送った手紙の中に角筆で脱獄を匂わせる文章を送っていたことが判りました。

逃亡中の嘉永2年2月14日長英46歳・金毘羅神社に参る!と言ってかくまわれていた場所を離れ、広島に立ち寄ります。
松軒は長英を日渉園「神農堂」にかくまいます。
松軒は息子浩軒(静夫)に食事を運ばせる。
諸説あるが3月中旬頃、9日間神農堂に潜伏しその後、鹿児島に向かって逃亡、4月に鹿児島に到着?発煙硝精で顔を焼いて江戸に戻る。沢三泊と名乗って医師開業するが1850年、町方に囲まれて自殺します。

(2001年9月9日原田康夫先生の講演より抜粋)

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